ホリスティックケアエッセー
人のオーラを見ることができるいう方のお話を聞くと、初対面の方とお話する時などに相手の性格や現在の気分などがわかるのは便利だろうな、と非常に羨ましい気がします。
オーラの色はその時々の気分によっても変化するものらしく、一色だけ見えるというものでもないらしい。
そして、その人の心持ちが変化するに連れて、オーラの色もやはり変化していくものなのでそうです。
例えば、ドッジボールをしているような場面ではボールを投げようとしている人のオーラの色が、赤みを帯びていれば直情的にあるいは力任せに投げてくるな、と予想ができる。しかし、その色が青い場合には、もう少し策略的にひねったボールが飛んでくる、というようなことがわかるのだそうです。
対人関係にも応用できそうで、やはりオーラが見えるのは羨ましく思えます。
オーラの色が持つ意味合いというのが私には良くわかりませんが、面白いのは、この直情的が赤、冷静で策略的なのが青、というのが東洋医学の五行説にも当てはまっていることです。
怒っている人、というのを色のイメージで表すとすると、赤、もしくは青筋を立てて怒るという表現があるように、青のイメージも浮かびます。赤鬼青鬼というのもここから来ているのでしょう。
この色の違いは、直情的に怒っているのか、同じ怒りでも考える余地がある策略的な怒り方なのかという差にあると考えられます。
「相手が赤い顔をして怒っているうちは怒りに任せて殴られる、ということがあるかもしれず危険ではあるが、相手が青い顔をして怒っていたら、刺されるかもしれないからとにかく逃げろ」と、鍼の学校で習いました。
一見、見境がなくなっていそうな赤い顔の方が恐ろしくて、青い顔なら冷静さが残っている分、交渉の余地があるのではないかという気がします。ところが赤なら闇雲に刺す、という分だけ急所は外れやすいけれど、青の場合は冷静に判断しているために確実に急所を狙ってくる。いわゆる殺人事件の裁判でいうところの殺意のあるなし、計画性有無というところだと思います。
この場合は、オーラが見えなくても、顔色に現れていますので、そんな場面に遭遇することがあったら、皆様も「ちょっと待て、話せばわかる」などと交渉しようと思わずに一目散にお逃げになることをオススメします。
さて、一見便利に見えるオーラを見る能力、実は見える人にとっては結構煩わしいもののようです。
ある 私の友人は授業中に級友のオーラがある日イエス・キリストのような金色に輝いているのに気づき、「なぜ彼のオーラが今日は金色なのだろう」と考えてしまい授業に集中することができなくて困った。と言っていましたし、刑務所のドキュメント番組のようなものを見ると、殺人を犯したような囚人のオーラはドス黒くて具合が悪くなってしまったりするのだそうです。
危機回避や、交渉の場面では相手のオーラが見えるのは便利のように思えますが、目の前でニコニコ笑っている人のオーラがドス黒かったりするのが見えてしまったとしたら、それも悲しいものなのかもしれません。
私たちは、あらゆる分野の能力者を無条件で羨んでしまうという傾向がありますが、見えなくても良いものが見える、というのは、必ずしも本人にとっては良いことばかりとは限らないのかもしれません。